November 9, 2009
November 8, 2009

彼女は、twitterのヘビーユーザーだった。

日本語版が開始された直後くらいから使い続けていた。

彼女にとってtwitterは、わくわくする新サービスだった。

それと同時に、「mixi疲れ」の逃亡先でもあった。

チャットでもメールでもSNSでもブログでもない「ぬるい場所」。

その感じがよかったらしい。

彼女にとって、初期mixiも、「普段は出会えない、同じ趣味の仲間」を見つけるための場だった。

でも、ユーザーが増え、「同世代はほぼ誰でもやってるツール」になると、

「普段も出会っている、いろんな関係の人たち」のメンテナンスで気疲れするようになり、

更新がどんどん減り、そのうち日記を書くのをやめるようになったという。

退会こそしないまでも、今では、たまにいくつかのコミュニティを巡回するのみとなっていた。

※そんな彼女曰く、「学校裏サイトやらプロフなんかで放課後も絡んでいる学生って信じられない」。

彼女は、twitterを非公開にしていた。

クローズドで、気の合う友人や仕事仲間にだけ公開し、

なんでもないことを話し合ったり、他愛も無い愚痴をこぼしあったりしていた。

長文を書かないでいいので気軽につぶやき、どうでもいい発言にレスがくるのが楽しかった。

同じテレビを見ている人と、テレビへのツッコミだけでタイムラインを埋めていくのが楽しかった。

地震が起こると、まっさきにtwitterをチェックした。

著名人の訃報を、twitter経由で知った。

そんな日がしばらく続いた。

ある時期のこと。

勝間和代やら国会議員やら、著名人が次々にtwitterをはじめていった。

その流れで、「微妙に身近」な人もtwitterをはじめた。

仕事関係の人も、旧友も、嫌いな人もtwitterを始めた。

自分の嫌いな人が和気藹々としているのを見ると、ちょっと嫌な気分になった。

仕事でしかつきあいのない年長の人がはっちゃけているのを見ると、

見てはいけないものをみてしまったような気分になった。

twitterの発言が炎上しているシーンをみかけることも増えた。

なんだか、場所が「薄まった」ような感じがした。

「微妙に身近な人」や仕事関係の人から、フォロー申請が次々とやってきた。

なんだか「とにかく大量の人をフォローする人」も現れた。

彼女は、「IT業界で少しだけ有名な人」だったので、見知らぬ業界人からも申請がやってきた。

「目上の著名人」の人からも申請がきた。

フォロー申請は、マイミク申請より簡素で、自己紹介文もない。

知り合いなんだか知り合いじゃないんだか分からない人から、日々送られてくるフォロー申請。

断るに断れないけど許可したくないけどやっぱり拒否しがたい相手からのフォロー申請。

覗きに行ってみると、「○○ちゃんにフォロー申請したけど、許可されないよぅ」とのぼやき。

「やっぱりここもこうなったのか」とため息ひとつ。

彼女はとりあえず様子をみようと思った

彼女の友人も、似たような境遇だった。

友人は、アカウントを増やし、広報用のアカウントと、公での絡み用のアカウントと、

今までどおりのクローズドのアカウントを使い分けることにした。

でも、だんだんと、一般公開用の発言ばかりになっていった。

それは、これまでの発言と違い、「化粧された発言」ばかり。

歯に衣着せぬ愚痴りあいはもうできなくなった。

その友人との絡みが、よそよそしいものになったように感じた。

別の友人は、数多くのフォロー申請をとにかく断っていった。

その彼は、ある日「あいつ、オレの申請断りやがったよ」という発言を発見し、

なんだか急につまんなくなって、アカウントごと削除した。

フォロー申請があまりに多いので、居直って公開することにした友人もいた。

新規参入した公開設定の人が、非公開設定の人の発言をバンバン引用するため、やむなく公開にした友人もいた。

そうした友人のログには、かつて自分の愚痴を引用した文章も載っている。

削除してくれるように要請するのも面倒で参ったの、といいながら、

彼女は残っていたコーヒーを飲み干した。

友人と絡めなくなった彼女が、

twitterにアクセスしなくなって今日で2週間。

iPhoneの使い道が一つ減ったことが、少し残念だと言っていた。

(一部だけフィクションなり)

結論としては読んでおく本だと思う。
世にあまたあるやっつけ経済本とは本質的に違うと強く感じた。

一冊を通じてポピュリズムが皆無である。“人を大事にしよう”とも“良い世の中にしよう”とも言わない。徹頭徹尾“日本の効率を改善するには何が問題で、何をすべきか”を論じている。池田信夫は世間に良い人だと思われなくても構わないらしい。だから一切ためらいながない。

しかしながら「俺の言うことが分からないヤツは馬鹿」と言わんばかりの文章には何度もイラッとさせられる。まあ確かにボクとはデキが違うのは事実なのだが、人は馬鹿扱いされると、しかもそれが事実であるほどムッとするのだ。

このレビューを読んでいる人はおそらく池田信夫のブログも愛読しているだろうが、実はあのブログでは情報が断片で与えられるがゆえに、余計にそういうイライラは強かった。むしろこの本で、弱者を放置していいと考えているわけではないことが分かって少し安心した。問題にしていたのは“やり方”だったらしい。

さて、不愉快な本である。がしかしボクは多分池田信夫の次回作を買うだろう。気分は悪いが頭の良い人間が時間をかけて集めた情報を整理して開陳してくれるのだから意味は大いにある。感情を理性で乗り越えて読むだけの価値がある本なんてそうあるものではない。

ボクは著者に以前からひとつ問いたかったことがある。とある高校の野球部で「どんなことをしてでも甲子園で優勝しよう」とチーム全員で誓ったとする。優勝のために結局全メンバーを入れ替えて目的を果たした場合、これを成功というのだろうか? 何というか彼の話はとれも理路整然としているのだけれど、そういう閾値みたいなものが欠落しているような気がする。マクロの話は人が生きる話とは永遠に整合しないのだろうか?

Amazon.co.jp: 希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学のCropleyさんのレビュー (via tsuda)

多分多くの人が抱いていた感覚を的確に表している。 まー傍観者的に池田さん好きだけど。